- ストーリー第一話厳かに、明るく。
- 鶴岡市出身。就職で岩手へ行き、
結婚を機に新庄市へと移住。
そしてヌマザワに入社。事務スタッフを経験後、現在はホールスタッフに。
Story
- 1994年鶴岡市で生まれ、幼少期から高校まで過ごした。海のある町で育ったからか、おおらかで明るい性格だとよく言われる。
2012年、仙台市の専門学校に入学。初めて親元を離れ、不安な日々を過ごした入学当時だったが、友達と両親に支えられ、2014年無事卒業。
専門学校卒業後、地元へ就職したが、その後岩手へ。縁もゆかりもない場所だったが、職場の同僚や近所に人に支えられ過ごした。そんな中で当時交際していた新庄市出身の今の夫と、結婚を機に新庄市へ居住を決めた。
- 転職の際に求人情報を見てヌマザワを知った。
調べてみると、新庄市の葬儀屋さん。
当時の募集職種は事務職や葬祭ディレクターなど。岩手では工場の事務職をしていたこともあり、何かできるのではないかと言う思いと会社の雰囲気をみて、応募を決意。
面接当日は、想像通りの明るい雰囲気の社員さんが迎えてくれ、これまた想像通りの明るい人が面接官でした。ただ、想像と違ったのは、その面接官がまさかの社長。最初から社長が面接官として登場してくるとは思っていなかったので、そこで過去一番緊張したのは忘れない。今思えば、緊張しすぎて何を喋ったか覚えていない。変なことは言っていないとは思うんだけど…(笑)
- 自分の意思を、希望を聞いてくれる。
そして期待してくれる。
合格をいただき、最初は希望していた事務職として勤務。その時からヘルプでホールに行く時があり、そこでお客様と直接関わっていく中で、お客様のそばでサポートするホールスタッフにも憧れを抱くようになっていった。そして働いて数ヶ月が経った時、社長に転課を希望。社長の答えはOK。
まだまだホールスタッフとして精進する日々だが、自分が初めて携わった葬儀の御葬家様からのアンケートに感謝の気持ちが綴られているのを見たときは、心の底から嬉しいと思った。その時の初心を忘れることなく、これからも「想いをつなぐ」葬儀を執り行っていきたい。
- 出演者インタビュー#01
- 山科 遥奈ホールスタッフ
- 鶴岡市出身。仙台市の専門学校を卒業し、結婚。新庄市に移り住み、ヌマザワに入社。事務スタッフを経験後、現在はホールスタッフに。Jターン。
- ストーリー第二話悲しみの先に
- 新庄生まれ、新庄育ち、芸工大卒業後仙台へ就職。その後ヌマザワへ入社。
祖母のお葬式がきっかけでヌマザワを知る。ホールスタッフの経験を得て、現在葬祭ディレクター。
Story
- 1992年新庄市で生まれ、幼少期から高校まで新庄市で育った。人当たりのいい性格からか友人も多く、地元を愛し、地元に愛されながら育った。
2011年、山形市の東北芸術工科大学に入学し、初めての一人暮らし。プロダクトデザインを学ぶ一方、新たな友人にも恵まれ刺激の多い学生活を過ごした4年間。よく家で集まっては、お酒飲んだりゲームをしたり、時には買い物に出かけたり。いつも遊んでいる分、課題が疎かになってしまう時もあった。卒業後は地元山形を離れ、主に営業がメインの仕事ではあったが、ファッションが好きなこと、人と接することが好きなことの両方が活かせる職として、仙台市の着物屋へと就職。新たな土地で、新たな人と接する仕事が楽しかった。
2017年、仕事中に親から祖母が亡くなったと電話。当時頭が真っ白になったことは今でもよく思い出す。幼少の頃から祖母が大好きで、何かあるたびに祖母に泣きついていた。高校生になってからも、何か落ち込むことがあると祖母の元へいき、ただ一緒に過ごした。今思えば何があったのか、祖母はわかっていたのかもしれない。
- 祖母の葬儀で新庄へ戻り、初めてヌマザワの葬儀を体感した。その時は祖母が亡くなった悲しみにくれていたが、気持ちが落ち着いた頃からこれからのことを考えるようになり、長男ということ、祖母の死をきっかけにふと思い浮かんだ「いずれは誰もいなくなってしまうのではないか」という不安から、新庄に戻ることを決意した。
ヌマザワで行った葬儀はずっと心に残っており、祖母の生涯を表現してくれ、悲しさを尊重しつつ、故人の想いを未来へ繋げようとする式典の内容。新庄に戻ることを決意したのは良かったが、就職のことは深く考えていなかった。就職先を探しているうちに、ヌマザワの存在が日に日に頭の中で大きくなり、求人情報を探した。経験もないし、半端な時期というのもあって、ダメで元々と思って応募。担当の方から連絡があり、すぐに面接がしたいということで、スケジュールを合わせてもらった。
- 日々違うことの連続で、学びの多い仕事。
そして「誇り」を持てる仕事。
面接はいきなり社長と。優しい雰囲気の中にある一言一言の重みが心に響き、面接中にさらにヌマザワで働きたいと思うようになっていた。後日合格の連絡があり、すぐに働きはじめた。最初は何もわからず、ただ先輩に付き添って学ぶ日々。自然と苦ではなかった。コミュニケーションをとるのは得意な方なので、わからないことはわからないと言い、それに対して先輩方も丁寧に教えてくれた。葬儀の現場は、急なこと・マニュアルにないことが突発的に起こるので、その都度もコミュニケーションはとるようにということも教えられた。当番制の待機もあり、初めは緊張感があり、夜寝れなかったことを思い出す。今はもう慣れもあり、寝ていても対応できるようになったが。
ヌマザワで働いて4年、葬儀の仕事は日々違うことの連続で、学びの多い仕事だと感じるが、その分やりがいや、お客様の笑顔がとても心に響く仕事だということを実感している。私はこの仕事に「誇り」を持っている。
- 出演者インタビュー#02
- 佐藤 寛人葬祭ディレクター
- 新庄市出身。芸工大卒業後仙台へ就職。その後ヌマザワへ入社。 祖母のお葬式がきっかけでヌマザワを知る。ホールスタッフの経験を得て、現在葬祭ディレクター。
- ストーリー第三話道はこれから。
- バンドマンを夢見た学生時代。
地元・新庄に帰ってきた自分に
新しい「道」を標してくれたのは、
ヌマザワでした。
Story
- 2021年12月16日、私は株式会社ヌマザワに入社した。
それまで葬儀業界で自分が働くことになるとは思っていなかった。暗い、重いといったネガティブなイメージしかなかったからだ。バンドを組んで、人前でギターをかき鳴らし、スポットライトと歓声を浴びることに快感を得ていた自分の学生時代を知る人も同じことを言うと思う。
きっかけは一本の電話だった。
父が病気になり、母から家事のサポートをしてほしいとのことだった。前職を辞めたタイミングでちょうどよかった。生まれ育った街・新庄に帰って一からやり直すのも悪くないと思った。
- 新庄に帰って、親の負担になることは避けたかったので、帰ると同時に仕事探した。そこでふと目に入ったのがヌマザワの求人票。正直、知らなかった。葬儀に関わることは今まで数少なく、記憶にも残っていない。でも自然と興味が湧いた。
すぐに電話し、面接の予定を組んでもらった。履歴書も用意した。面接日当日、部屋に通され少し待っていると、面接官として社長がきた。おいおい、聞いてないぞと思いつつも、そこはバンドで培った度胸とトーク力で乗り切り、後日無事合格の連絡が届いた。
初出社日、面接日には感じられなかった会社の雰囲気があった。葬儀屋さんなのに、なんだこの笑顔あふれる会社は。休憩時間は先輩も分け隔てなく接してくれるし、底無しに明るい。
- 一つ一つの仕事を丁寧に覚えていく。
それが夢への一番の近道。
しかし、いざ葬儀となると、空気がピリッとする。初めての葬儀で、私は先輩の後ろについて、見守ることしかできなかった。悲しさだけじゃない、明るい未来を願う故人の想いと、ヌマザワのスタッフが作り上げる厳格で柔らかい雰囲気が入り混じる空間。そして私は、初めての葬儀で、私はその空間を作り出す人になりたいと思った。
ヌマザワ入社して夢ができた瞬間だった。葬祭ディレクターになりたい。今は式典の施行の業務を行っているが、まもなく葬祭ディレクターへの道も開ける。でもまずは夢のために、目の前の一つ一つの仕事を丁寧に覚えていく。それが一番の近道だと思うから。
いつか葬祭ディレクターとして、任される日が来るその時まで。
- 出演者インタビュー#03
- 八鍬 豊施行スタッフ
- 新庄市出身。山形大学卒業後、東京の会社へ就職。家族の事情で帰省。祖⽗⺟のお葬式で知ったヌマザワに⼊社。現在は葬祭ディレクター⾒習い。Uターン。
- ストーリー第四話つながり
- 神奈川県出身。山形県内の大学を卒業後、
天童市の会社に就職。
結婚・出産を機に隣接する舟形町に移住。
ホールスタッフを経験後、事務スタッフに。
Story
- 1985年神奈川県横浜市で生まれ、大学進学を機に山形へ移住する。はじめて山形の地を踏んだ時、今まで住んでいた横浜とはまるで違う景色が広がっていた。私はここでやっていけるんだろうか。
2008年、東北公益文科大学を卒業後、天童市で働く。宿泊業を生業とする会社であったが、結婚式場の運営も行っていた。その時に出会った男性と結婚し、それを機に事務職へ異動することになる。当時のその経験が、今のヌマザワでの事務員としても遺憾なく発揮されていることは言うまでもない。
2013年、夫の地元である舟形町へ移ることを決めた。天童市でさえ雪が多いと感じていたのに、舟形町はそれ以上に雪深いと感じたことを今でも鮮明に覚えている。天童市、舟形町それぞれへの在住経験から、今では立派な山形県民。山形のことなら私におまかせ(笑)。
- 子供の小学校への進学後、新たな就職先を探すこととなる。前職での経験があるため、冠婚葬祭に携わる仕事に就きたかった。そんな折、求人情報を探しているとヌマザワの文字が目に入った。
友人からの情報や自分でインターネットで調べるうちに、地域の人から頼りにされている企業であることを知る。応募を決意するのに時間はかからなかった。
当初は事務員としての配属を希望していたが、まずはホールスタッフとして採用されることとなった。結婚式場での経験に自負があった私は、人と接することに不安はなかったが、これまでの人生で葬祭に関わったことがほとんど無く、仏事の専門知識を蓄える必要があることに焦りを感じていた。結果として、その焦りは杞憂でしかなかった。先輩方からの手厚いサポートがあったから。
- 働けば働くほど、
誇りを感じられる仕事
会社全体でWEBやSNSを通して情報発信をしていくことが決まり、それを機に事務員へと異動する。前職でもSNSやホームページの立ち上げに関わっていた経験に社長が目をつけてくださった。
ヌマザワは働けば働くほど、誇りを感じられる仕事だとここ最近は特に強く思っている。葬儀を終えたお客様が事務手続きのためにお越しいただいた際に「あの人の対応が本当に良かった」「この人が自宅で丁寧に説明してくれて助かった」なんて、チームの仲間を労う言葉を掛けていただける。私自身のことではないのに、これが妙に嬉しい。それだけスタッフみんなと強くつながれている証拠だと思う。
そんな私たちのつながりが、地域の皆様へ安心と信頼をお届け出来るように頑張ろう。この場所から、今日も私の一日がはじまる。
- 出演者インタビュー#04
- 伊藤 沙弥果事務スタッフ
- 神奈川県出身。山形県内の大学を卒業後、天童市の会社に就職。結婚・出産を機に隣接する舟形町に移住。ホールスタッフを経験後、現在は事務スタッフに。
- ストーリー第五話家庭と仕事
- 新庄市出身。
子育てのため、育児休暇取得第一号。
ホールスタッフ、生花スタッフを経験後、
現在はホールスタッフとして勤務。
Story
- 1979年、新庄生まれ、新庄育ち。
ほがらかで明るく、テキパキとさまざまな業務を行いながら、みんなを温かく見守っている。
2009年、板金屋で働いていた私は、ファミリエ茶屋町のホールスタッフ募集のチラシを目にし、気づくと何も深く考えず電話をかけていた。以前結婚式場でのアルバイトをしていたために、人と接する仕事に惹かれていたのかもしれない。生まれも育ちも新庄だが、ヌマザワが葬儀を扱う会社ということを知らなかった。
働いてみると、かなり地域に密着していて、葬儀といえばヌマザワと認識している人も多い印象。そんなヌマザワでホールスタッフという新たな仕事をスタートした。
- 入社後、子どもができた。以前の女性社員は結婚を機に退職したり、妊娠を機に退職するという選択をとるなか、私はやりがいのあるこの仕事を、辞めたくないと感じていた。現在の会長に、私は「この仕事を続けたいんです」と伝えた。すると会長はこの気持ちに共感してくださり、喜んでくれたのだ。そして、ヌマザワで初めての育休を取ることになった。
復帰後も、子育てをしながらの正社員として働くには限界があり、時間の調整が困難に。すると会社のほうからパートタイムの方が働きやすいのでは、と持ちかけてくれた。思えば、社員の状態に合わせて雇用形態を変えてくれたり、システムを整えていたり、社員を思ってくれる温かい職場なのだと実感。仕事と家事・育児を両立できる環境に身を置き、気づけば忙しない子育ても一段落。
- 世代を超えて受け継ぐもの。
私はその架け橋になりたい。
長年働いていても、苦しい気持ちになることもある。だけどこの仕事をしている以上、気持ちを割り切って、業務に徹しなければいけない日もある。
いろんな想いを感じる日々の業務の中、お客様からの感謝の想いに触れる時、この仕事に誇りを感じる。お客様から「ありがとうございました」といっていただけることが、達成感であり、やりがい。
日々、宗派による違いを少しずつ覚えたり、先輩が残してくれたリストをみて、よりスムーズに業務が行えるよう勉強を続けている。
私は、これから下の世代にもヌマザワとしての想いをつないでいきたい。
- 出演者インタビュー#05
- 長澤 直美ホールスタッフ
- 新庄市出身。子育てのため、パートタイム勤務で入社。育児休暇を取得。ホールスタッフ、生花スタッフを経験後、現在はホールスタッフに。